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「ルッキズム」とは?外見至上主義の問題点を考察(前編)

外見や容姿に基づく差別や偏見のことを「ルッキズム」といいます。

ここでは、

について取り上げます。

後半となる2記事目では、「ルッキズムは、何故なくならないのか」、「外見差別への対抗策」を考察します。

 

ルッキズムとは

ルッキズムとは、「ルックス(looks):外見、容姿」と「イズム(-ism):主義」をかけあわせた造語で、人の外見を美醜で評価して、美の基準にそぐわない人を差別的に扱う思考(価値観)のことです。

ここで注目したいのは、「自分の好みではない」、「苦手だと思う」という程度を越えて、美醜で評価して差別的に扱うというところです。

誰にでも個人的に好きな顔やタイプはあるものです。しかし、「あの人の顔が嫌いだな」と思っても、それだけでルッキズムということにはなりません。

ルッキズムは、美の標準にそぐわないとされる人々に対して差別的な態度や行動を取ることで表れます。美醜に基づく差別が社会に広く浸透していると、平等や多様性が脅かされ、偏見に基づいた不公平な状況が生まれる可能性があります。

なぜ外見差別が広がるのか

メディアやSNSの影響

電車の広告や雑誌、テレビなど、メディアで取り上げられる女性は、暗黙に規定されている「美の基準」を前提として選ばれた女性たちです。

「美の基準」は、その時代や社会背景から、選ばれたものであり、とりわけ男性にモテることや映像・写真映りの良さが基準であることが大半です。

メディアが作る女性像は、いつしか社会にステレオタイプの女性像を作り上げ、女性像と現実の女性を比べて、「太りすぎている」「目が小さい」「顔が大きい」などと、認識するようになってしまいます。

文科省「学校保健統計」(2019)によると、157.8センチの17歳女子の平均体重は、52.9キロですが、モデルなどのいわゆるシンデレラ体重といわれる理想体重では、44.4キロとなっており、現実の平均体重との乖離が目立ちます。

また、現在では、SNSが「美の基準」を作るメディアとして最も影響力が高いといいます。社会心理学的にもSNSの利用がメンタルヘルスの問題になることが示唆されています。

メディアが作り出す美の基準が、個々の女性に対して非現実的な期待を生み出し、自己評価に悪影響を及ぼす可能性があることが深刻な社会問題となっています。

男性中心的な思考、しかし男性も……

社会で女性活躍が謳われるようになったのは、まだまだ最近のことであり、現在でもその活躍は十分であるとはいえません。

現在まで、メディアはもちろんのこと、学問や芸術の多くは男性を中心に生み出されたものです。そのため、現代社会には「男性が理想とする女性像」が当たり前のように描き出されています。

男性が描き出す女性像は、目が大きく、胸が大きく、髪が長く、肌の色が白いなど、偏った外見的特徴が目立ちます。理想化された女性像に合った女性を集めて、メディアに露出することで、あたかもそれが一般的な女性の美しさであるかのように、社会全体に錯覚させ、「女はこうでなければいけない」という姿を映し出します。

女性の非正規雇用が問題視されている現在。男性を中心に考えられた雇用や社会制度のなかでは、女性がひとりで生きていくことは難しく、必然的に男性の理想に合った女性であることを要求されることになります。

もちろん、容姿は女性だけでなく男性にも影響が見られます。特に男性では、容姿の良さが役職や所得の多さに関わっていたという研究報告があります。こうした現象が、女性たちに対して偏った期待やプレッシャーを生む一因となっていると考えられます。

以下は、小林と谷本(2016)の研究報告です。

男性では、容姿がよい人はそうでない人と比較して、役職についたり所得が多くなったりしやすいだろう。これまで告白されたり交際する機会に恵まれ、結婚し子どもがいる可能性が高い。自分の所属階層は高いと感じ、幸福で、自信をもっているだろう。女性でも、ほぼ同様の傾向があるだろう。ただし、所得にとくに差はなく、幸福なわけではない(不幸でもない)。

ルッキズムの正当化

日本の社会学者の吉澤夏子(2018)は、美という評価基準を不適切な場面で使うのが問題なのであって、美を個人的な場で論じるのが問題なのではないとした上で、以下のように述べます。

しかし、美人だから選んだということを客観的に裏付けるものは存在しないわけで、なぜかと言ったら、それは心の中の問題であるからだといい、その人を美人と思うか思わないかって、好みの問題でもあるからすごく恣意的になる,「Aさんが美人?そんなこと思ってない」と言って自分を正当化することだってできてしまう。

誰が美人であるかは個々の好みや価値観に依存し、他者がその美の評価を否定することも容易であるため、ルッキズムにおいては恣意的な判断が頻繁に見受けられます。

美人であると感じるかどうかは個人の主観的な判断に左右され、そのため「Aさんが美人?そんなこと思ってない」といった主張が生じたり、逆にルッキズムの指摘に対して、「Bさんをブスだって言うのか!」などの反論が起こることもあると述べています。

このように、吉澤夏子氏によれば、ルッキズムは心の中の問題であるため、正当化が容易であり、無意識的な差別が広がりやすいとしています。

この問題を解決するためには、美の評価に対する認識を変え、主観的な好みや価値観に囚われず、個々の違いを尊重することが必要であると言及しています。

ルッキズムの問題点

ここでは、社会学者である西倉(2020)の『「ルッキズム」概念の検討』で述べられているルッキズムの3つの問題点について取り上げます。

その後、メンタルヘルスの面からの問題点についても触れます。

社会的な不平等~イレレヴァント論

西倉(2020)によると、ルッキズムの問題の1点目は、本来は外見が評価されるべきでない場面で評価されていることを問題にするイレレヴァント論があるといいます。

そこで挙げられているプログラマー採用の例でいえば、

プログラミングスキルが80点で容姿は「良くない」または「普通」の応募者Aと、プログラミングのスキルが70点で外見が「良い」応募者Bとがいた場合、Bが採用されるような事態であり、本来は外見が評価されるべきでない場面で評価され、外見が良くないとみなされた人が不利益を被ることを問題にしています。

こんなこと当たり前じゃない?だって、顔が良ければクライアントとの交渉だってうまくいくだろうし、などと何食わぬ顔で考え始めたら、それこそがルッキズムの問題です。

では、事故で外見が大きく変わってしまったとき、差別をうけることも当たり前というのでしょうか?

老いることはどうでしょうか。どれだけ美の基準を満たしている人であろうと、生きている限り必ず老いは訪れます。身体にはしわやシミができ、髪は薄くなります。

そのとき、差別をうけるようになるのは当然だ、と受け入れることができるのでしょうか。

性別や年齢、人種などのほか差別を助長~美の不均衡論~

ルッキズムは、外見の美醜評価にとどまらず、様々な差別と密接に結びついています。

例えば、「女性は、若い方がいい」というのは、しわやシミといった老いを否定するエイジズムの概念であり、「肌が白く、目が大きい方が良い」というのは白人崇拝的であり、人種差別を助長します。

また、職場で「女性は化粧をする、スカートをはく」といった男女に求められる美の基準の違いは、「女はこうあるべきだ」というジェンダー差別を高めることになります。

西倉は2点目の問題として、社会的に評価される外見の美しさが社会的カテゴリーによって不均衡に配分されていることを問題にする「美の不均衡論」について述べています。

社会学者のハキムは、美や性的魅力、社交スキルなどを個人資本と捉えて、「エロティック・キャピタル」と示しました。
この流れから小林(2020)は、容姿の良さを「美容資本」とよび、美容資本へ投資することによって、外見がコントロールできるという考えを主張しました。

しかし、外見がコントロールできるということには限界があります。

なぜなら、「美の基準」が存在し、そこに近い人がより美的だと評価されるからです。

そうであれば、生まれながらに「美の基準」を満たしている人の投資と、そうではない人の投資では、そこにかける労力が違いますし、たとえどんなに投資しても「美の基準」を満たせない可能性が大いにあります。

例えば、生まれながらの肌の色を変えることはできません。目の大きさや骨格は、整形によって変化させることは可能ですが、大きな負担と労力が必要になります。

これに対して、西倉は以下のように批判します。

人々がもともと持っている初期資本は人種や階級、ジェンダーによって不均衡であり、「良い外見」を獲得するのにより少ない投資で済む人とそうでない人がいることを看過している。また、「良い外見」が白人性やヘテロセクシュアリティ、健常性や中流階級性と結びついているとするならば、たとえ投資をしても回収できないという事態が生じうることを見落としている。

個人という存在への搾取~美的労働論~

3点目に西倉は、労働市場での「美的労働論」を問題があることを挙げています。

「美的労働」とは、企業が定めた「容姿の基準」に合った、服装や髪型、立ち振る舞いなどが求められる労働です。

スーパーのレジやデパコスの美容部員、ホテルスタッフなど、求められる程度は職種により様々ですが、主にサービス業に求められます。

西倉はここで、以下のようにまとめています。

雇用者は、同業他社との競争で有利になるために、募集、選抜、訓練、モニタリング、報奨のプロセスを通じて労働者の身体体重やサイズ、服装や化粧や髪形、立ち居ふるまいや姿勢、言葉づかいやアクセントなど開発し、利用するのである(Nickson & Warhurst2007)。…(内略)…英米の実証研究によれば、雇用者が労働者に要請するのは中流階級文化資本や既存のジェンダー規範に適合的で、「民族色が強過ぎない」外見である(西倉2019a)。すなわち、美的労働が重要な位置を占める社会では、労働者階級の出身者や人種的マイノリティ、支配的なジェンダー規範とは合致しない外見の人々が雇用を確保し維持するうえで不利な状況に置かれることになる。

ここで問題とするのは、「自分らしさ」という概念を排除した企業の求める「容姿の基準」に合わせて外見をコントロールしているところです。

「容姿の基準」には、あらかじめ定められた理想が存在します。

その理想には、理想化された普通の概念である、肌の色や髪の色、体型や身長に伴って、「女性らしさ」などの無意識なジェンダー規範が定められています。その基盤にそぐわなければ、仕事に就くことも契約を安定させることも難しい状況に置かれてしまいます。

日本でいえば、海外から来た人がなかなか仕事にありつけなかったり、背が小さいから、太っているからという理由で仕事が決まらなかったりする問題につながります。

メンタルヘルスの問題

当然のことですが、差別をする側がいるということは、差別を受ける側も存在します。

どんな種類の差別にせよ、差別的な言動は、受ける側に不快感や苛立ち、悲しみなど、様々な心のダメージを与えます。

ルッキズムが影響する心の病としてよく挙げられるのは、摂食障害醜形恐怖です。

ルッキズムに関する摂食障害とは、いわゆる「痩せ神話」というやつで、「痩せているのは、可愛い」「痩せたら可愛くなる」という、痩せていることへの神聖化が要因のひとつとなって生じます。

少し前に、「可愛いは正義」なんて言葉が流行ったことがありましたが、その言葉は醜形恐怖症へと誘発する呪文のようです。

醜形恐怖症は、自分の顔をひどく醜いと感じて、外出することができなくなったり、1日中容姿のことばかり考えて鏡を何度も見たり、何度も何度も自撮りを繰り返したりするなど、日常生活に問題が生じてしまう心の病です。
また、周囲やSNS、メディアの影響を過剰に受け、「容姿の良さこそが全てである」とするルッキズム的思考を自分自身へ叩きつけ、身動きが取れなくなっている状態とも言えます。

それ以外にも自己肯定感の低下、自己効力感の低下、うつ病PTSDにつながることが示唆されています。

それらの心のダメージから、登校拒否や引きこもり、離職、失業など、ライフスタイルにも大きな影響をうけることがあり、人生の学びや経験の多様な機会が奪われてしまう危険をはらんでいます。

以上に挙げたルッキズムの問題点は、氷山の一角に過ぎないと考えます。

ルッキズムは、「産まれ、老いて、やがて死に至る」という生命の尊さについて深い思考を欠いています。そのため、外見差別的な価値観は、陳腐で浅はかな残念な考え方であると言わざるを得ないと考えます。

 

……後半へ続く……

interpersonalrelations.hateblo.jp

参考文献
板垣海佳,メディアの影響による容姿格差問題 〜醜形恐怖症とルッキズムの観点から〜

引用文献

西倉実季,2020,「ルッキズム」念の検討外見にもとづく差別

小林盾,谷本奈穂,2016,容姿と社会的不平等 ─キャリア形成、家族形成、心理にどう影響するのか─

吉澤夏子,2018,女であるとはどういうことか【前編】,インタビュー記事